うまでししでやぎでへび
- 2014年1月4日(土)
あけましておめでとうございます。
今年もキマイラクションをよろしくおねがいいたします。
ちなみにいつもと比べて絵のベタが雑なのは…実家で取り込み&ブログ更新しているためです。なんかうまいこと調整できませんでした><
まるで性能の低いコピー機で作ったコピー本の如しです(笑)
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あけましておめでとうございます。
今年もキマイラクションをよろしくおねがいいたします。
ちなみにいつもと比べて絵のベタが雑なのは…実家で取り込み&ブログ更新しているためです。なんかうまいこと調整できませんでした><
まるで性能の低いコピー機で作ったコピー本の如しです(笑)
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先日、ふと「フィギュアとかつくりてえなー」といつものように”やりたいアンテナ”がびびっと働いたのですが、そのときに思い出したことがあるのでつらつら書いてみます。
いつだったかに、最近話題になっている「3Dプリンター」の特集を見たんです。
アレ凄いですよね。データがあればなんでも立体的に作ってしまうなんてまさに夢のよう。なのですが、僕はこれを見てまずこう思ったんです。
「あっ…これフィギュア職人が死んでしまう」
と。(逆に、3Dデザイナーなんかはこれからウハウハーとかね)
この件もそうですが、便利になったり、夢の技術ーって響きがあったりっていうのは、必ずしも恩恵ばかりをもたらしてくれるわけではないのですよね。今まであれやこれやと苦労して、ようやく形にする術を見つけたのに、気づけば周りはラクに形作る方法を戴いている。まるで険しい山道を登って頂上に着いたら実は別にハイキングコースがあったかのようながっかり感です(笑)
こんな経験、今まで僕もあったといえばあるかもしれません。今なんかはSNSの普及で自己表現がものすんごく簡単にできるようになって、もはや僕がここでくっちゃべってるのも馬鹿やってるなあって思えてしまうもんです^^;
利便性はときに、それまで必要としてきたものをいとも簡単に殺してしまうのですね。
…そんなことを思い出してしまったので、やっぱり今更フィギュアを自分の手で作るのってどうなのかな、とちょっと考えたりしたわけですが、そう考えると難しいですよね。だって大体の技術って上記のような可能性があるんだもん。となるといろいろ手が出しにくい?時代を読む力が必要か?ラクにできるようになるまで待つべきか?なーんてことをちょっと悶々と考えてしまうのでした。
※ ※ ※
しかし、果たして本当に代替技術ができたときに元の技術は不要になってしまうのか?
ということでとりあえず色々な視点から考えてみることにしました。
【1】元の技術は全ての先端技術の礎になる。
↑のように書くとなんかもういかにも意識高い臭いがプンプンして僕はもう逃げたくてしょうがないのですが、それでもやっぱりこの考えは大切ですよね。実際、やっぱり技量が高いほうが何かといいことがありますし。特にひねくれたところまで手を伸ばしたければ、礎となるところを知るのは大切になってきますよね。
あっあと便利なものに支えられてばっかりってのもよく考えたらなんか癪に障るなーって。これは個人的な考えですが(笑)
【2】技術は全て知識となり、創作の種となる。
僕はなんか面白い知識を手に入れてしまうとついつい創作ネタに出来ないかなーと妄想してしまうのですが、特に技術チックなのって妄想の内容を骨太にしてくれてすごく好きなんですよね。特に原始的なものほど燃えるというか・・・ このことに気づいてしまった時点で結論出てしまいますね。全て妄想の種にしてあげるからねー!!!うふふー!!!!
とまあ、色々考えてみると楽しいなあっていうか、無駄なものなんて存在しないというか、無駄って考え方をしたくないというか。
というか僕そもそも仕事で創作やってるわけでもなく趣味全開でいってるのに、こんな考えでぐるぐる回ってしまう時点でおかしいんですよね。やりたきゃどんどんやればいいし、古いやり方も新しいやり方もいろいろ触って楽しんでいけばいい。その先に見えるものは全くわかりませんが、進まないよりは先が見えるはずですよねー
あっでも今回こうやってちょっと立ち止まって考えてみたのはそれはそれで楽しかったのでありかなとは思っています。
※ ※ ※
そういえば東京オリンピックが決まりましたね。と無理やり時事ネタをかませてみる。とりあえずめでたいですね。
7年後とまだ先の話とはいえ、大きな祭典が自分の国で行われるという事実。それだけで、「7年後っていろいろどうなってるのかな」っていろんな期待をぽんぽん膨らますには十分。
未来への希望を抱くのってそういえば僕(を含む僕の世代)はあんまりしたことないな、と。こういうのも悪く無いですよね。できることなら、なるべく不安とかではなく希望をもって生きていきたいものです。上記でつらつら書いたことも含めて。(頑張ってつなげた)
僕は活動の性質上、よくケモノ着ぐるみイベントとかに行ったりするので、そういう着ぐるみを作ったり装着したりする人がお知り合いに結構いるのですが、そういう方々がたまーに口にする言葉で、個人的にちょっと文化の違いを感じる言葉があるのです。
それは着ぐるみ師さんが新しい仔の作成をするときに口にする言葉。
「どうしよう、この名前他の仔と被らないかな…」
と。ああ、着ぐるみ界隈だとこういうこと気にしなきゃいけないんだなあ…って、聞くたびに思っています。そうですよね、名前というのはそれこそ「キャラクター」を表し、象徴する言葉。オリジナリティが要求されるはずの場所であり、意図せず他の仔と被ってしまったときには…(まあでも、意図的に似たような名前にすることとかはあるんでしょうけど、それはそれ)
で、思ったんですけど、僕も創作キャラクターとかよく考えたりする身なので上記に似たような感情を覚えるはず、…なんですが、こういうこと考えないんですよね実は。少なくとも僕は考えないです。何が違うのかなーとちょっと考えたのですが、確かにありますね、明確な違いが。
それは、「同じ世界で活動するか、そうでないか」ということ。
キャラクターというのは、考えている時点ではそれぞれのキャラクターは各々の脳内世界に存在するもの。それは着ぐるみ界隈であろうが、僕がやるようなキャラクター創作だろうが共通です。
問題はそこから生み出された仔達をどのように活躍させるかということ。着ぐるみキャラというのは、現実世界に「召喚」することで活躍する場を与えられます。どんなに生まれるまでに様々な経緯があろうと、活躍の場は共通。対して僕は基本絵描きさんなので、「召喚」する場所は紙の上の世界。そこは上記の脳内世界とは少し異なるかもしれませんが、誰にも干渉されない、僕だけの世界です。
従って基本的には、「同じ場所に立つことによる不安」を感じる必要って無いんですね。(ここで、「創作企画とかになると同じ世界になるよね?」って思ってしまったのですがこれはまた暇な時にでも考えることにします)
まあでもたまに創作したキャラクターが他の人のキャラと似通ったものになってしまったときには一種の悔しさなんかを感じたりするわけですが、それは単純に「唯一のものを考えることができない自分への苛立ち(笑)」とかですし…名前とかは前は被ると「あー」くらいには思ってましたが最近は別にいいじゃんーと思うようになりました。(その分、しっかりキャラにあう名前を付けなきゃな、という気持ちがだんだん強くなってきたりね)
そう考えると、同じ世界でこういう活動するってなかなか大変なんだなーとか思ってしまいます。それでも、自分の描いたものを現実世界に実現できるというのは、なかなか羨ましいものなのですけどね。
実は本日で26歳になりました。
ということで、26歳ってきいてちょっと思うこと。
僕は誕生日を迎えて○○歳になった~というときに、その年齢にまつわる人物、キャラクターなどを思い出して、「ああ、同じ年齢になったんだな」って思うんですが(特に20歳過ぎた当たりからしみじみとね…)、今回はキャラクター等よりも先に思い出す人物がいます。
それは、僕が高校に通っていたときの担任の先生(女性)。僕が家から遠い、知り合いも少ないそんな高校に通い始め1年目の担任の先生は、当時26歳でした。ただ若いだけでなく、上品な気品と美しさを持ち合わせ、さらに生徒一人ひとりを大切にする性格の良いお姉さんでした。
そんなわけで生徒からの人気も高く、僕も結構好きだったわけです。少しの不安の中過ごした高校1年生という時代は、彼女のお陰で今でも華やかなイメージが有りますし、26歳のイメージというのも、(それまでまともにその年代の人と接する機会もなかったこともあって、)彼女みたいな気品のある年代というイメージが無意識にできていました。
残念ながら2年からは理系に進んでしまったために、それからは殆ど接する機会がなかったのですが…卒業式の日に久しぶりに話す機会があって、もうすぐ上京する自分へのエールを頂いたことを覚えています。
それから8年くらい経ったのかな? ついに今日自分が26歳になってしまったのかと思うと…自分は立派な大人になれているのか、改めて考えてしまいますね。たぶんなれてないですが…ただ、そういう人物に近づけるように努力するよう考えることは、今はできていると思います。
これからの一年は、明確な目標のある一年。頑張っていきたいですね。